臨終とハイヒール

 

 

 

暗い話になるかもしれない。危険を避けるために共感力の高い人は読まないほうがいい。

 

 

 

 

鬱病の薬を飲み始めて8年になる、という記事を先日書いた。自覚がなかったが、今から思えばこれはカミングアウトだった。別に隠しているわけではなかったけど、ウェブ上にわざわざ書くほどのことでもないと思っていたから、今までどの公開SNSにもこのことを書いたことはなかった。

 

でも書いてみて、公開してみて、スッキリした。抑圧されていた鬱憤が~とかそういう感じではなく、なんていうのか、掃除してる最中ここなかなか落ちないな~と思ったところに、あっそうだ重曹使ってみよう!と思い立って実行したらあらゆる汚れがピカピカに落ちたみたいな爽快感があった。

水場が綺麗になると部屋全体を片付けたくなってくるもので、興が乗った。せっかくだから私という人間の死生観というか、そこまで大袈裟なものではないんですが、まあどういう風に生きてきてそして死にたいのかくらいなことをね、ここに書いても、いいかもね。と思った。ここ私のブログだし。自分について長文を語っても構わないだろう。だから読みたい人は私が網戸の掃除をしているのを見てるみたいな気持ちでこれを読んでくれたらいい。網戸の汚れがゴッソリ取れたのを見て、感想を持ってもいい。持たなくてもいい。ウゲ、と思うかもしれない、私を見る目が変わるかもしれない。こんなやつの漫画読むのやめようと思うかもしれない。いずれにせよ私はあなたにいかなる配慮も求めない。自由に書くから自由に読んでほしい。

 

 

 

 

 

 

私は死にたい。これは基本事項である。

どういうことかというと、私は鬱病なので、基本的にずっと死にたい。これは覆らない。緩和させることはできる。一時的に忘れることはできる。でも覆らない。

生命への感謝を、奇跡を忘れたことはない。ものすごく生きたい。生きて生きて生きて、この世のすべてを味わい尽くしたい。よろこびを極めたい。そしてこの願望と同じくらいの強さで、私は死にたい。

 

どうしてこうなったか?その理由について少し思い当たる節があるが、それについて考えがきちんとまとまっていないのでここでは割愛させてもらいたい。いずれここで書く日が来ると思う。

 

 

 

 

とにかく、20代の前半は自殺願望が顕著だった。

一刻もはやく死にたかった。死ぬことで、周りに、なんだかよくわからなかったけど鮮やかな人だったね。と思われたらそれでいいと思っていた。それがいいとも思っていた。鮮やかさが年齢とともにくすんでいくようなら、命の瞬きがブレる前に死んでしまったほうがいいと思っていた。

家族や友人が自分の死でショックを受けるなんて、到底信じられなかった。ゴミの詰まった袋が焼却炉で燃えたからといって泣く人はいないだろうという理屈だった。

 

 

 

そのころ私は神田川のそばに住んでいた。川沿いは桜の名所で、私の誕生日の頃には薄ピンクが満開になり、花見客が大勢来る。私はそこで投身をしようと決めていた。下見を兼ねて橋の上を通ると高さもちょうど死ねそうな按配だった。できたら誕生日に死ねたらキリも良くて綺麗だからそれがよかった。ただどういうわけか毎年毎年私は誕生日に、友人一同とそこで花見をする予定を入れてしまっていた。死ぬ予定を忘れて、3月のなかば、暖かくなって頭が浮かれてしまうと、四月一日に花見をしようね!と、しかも私からみんなを誘っていた。そして誕生日が終わると、あっそういえば死ぬはずだったのに!忘れてた!と額を叩くのを何年も繰り返した。あまりにもバカすぎる。お前は本当に死ぬ気があるのか?と今となっては思う。

 

いや、死にたさで言えば当時は今の何倍も死にたかった。鬱の症状はあの頃の方がずっと重かった。だから本気で死にたかったけど、幸いなのかなんなのか、死は回避されていた。

 

そこから越してしばらく経って、父の元同僚がまさにその橋から身を投げて死んでいたことを知った。それもちょうど桜の頃だったそうだ。父は毎年私の下宿先に来ていたが、それは橋の上から白い菊の花を投げるためだった。

その話を聞いた私は、父の元同僚が私を守ってくれていたのだと思った。具体的な守り方としては3月も半ばになると、そろそろだなと腰を上げ、バカになる魔法をヨイショーッと私の頭にかけてくれていたのだと。バカの魔法にかかった私はLINEグループで花見の誘いをする。そして誕生日が過ぎて魔法が解けるとヤベッ今年も死ななかった!やらかした!!と気付く。こういうことだったのだろうと。そういうことにした。魔法がかかっていようがいまいがバカに変わりはないことを、あまり直視したくないこともあって。

 

 

 

 

 

 

 

 

神田川沿いに住んでいたのは、大学から近かったからだった。

 

普通の人は大学を4年間で卒業する。

私は1年間浪人したので、プラス1年。だとしても5年間。それが普通の人に許された大学生活の期間である。

 

大学生のあいだ、私はどこにでもいる普通の大学生になりたかった。

 

普通に学校に通い(1)、勉強して(2)、恋して(3)、サークル活動して(4)、飲み会して(5)、バイトをして(6)、卒業したら同期と同じような大手企業に勤める(7)。それが私の夢だった。

夢はことごとく破れた。まさにレ・ミゼラブルの様相を呈していた。毎日が惨めで仕方なかった。国が破れると山河が残るらしいが、私の夢の破れたあとを見渡しても真っ暗な闇が広がっているのを認めることしかできなかった。

 

 

せっかくだから夢の破れ方をメモしておこう。

 

1. 学校に通う

発達障害なのかパニック障害なのかはまだ断定されていないが、私は『毎日同じ場所に通い、同じ人と挨拶をして、同じ席に座って作業をする』ことが、大学2年の春についに不可能になってしまった。手が震え、汗をかき、そのうち朝にまったく起きられなくなった。玄関で靴を履いて立ち尽くすことが何度もあった。高い授業料と教科書代。ぜんぶ親が汗水流して稼いだお金で買ってくれたものだ。私は崩れ落ちた。これからも継続的に金銭の迷惑を掛け続けてしまうくらいなら、死んでしまえばあとは葬式代を出してもらうだけで済むのだからそちらのほうがいいだろうと思った。遺書に散骨を希望しておけば墓の費用もかかるまい。そう思った。

 

 

 

 

2. 勉強をする

私はバカだった。何を今更と思ってくれていい。でも高校まで相対的に賢かった。数学や科学はからきしでも英語国語はできた。教師からも鋭い質問をしてくる可愛くない生徒だという評価を受けていた。だから大学でもいけると思っていた。

大学での勉強はそれまでの勉強と何もかも勝手が違った。より専門的になり、より多岐に渡った。私は焦り、大学1年の頃はめちゃくちゃに勉強したが、そのうち『自分の手持ちでは通用できない壁』を学問に感じ始めた。ゲームであれば装備を整え、レベルを上げ、戦略を練ればどんなボスでも勝てる。それを思い出せばよかった。ただ目の前のプリントに集中し続けていればよかった。しかし私は愚かにも、信ぴょう性の怪しいレンズの入った望遠鏡を覗き込んで、学問の世界に果てがないことを知り、ひどく怖気付いた。果てしのなさ、それを歓びと感じることができなかった。こんなのキリがないじゃないか!と絶望した。いくら歩み続けても登頂できない山に登る意味が見出せなくなった。それと同じ頃、私は家から出られなくなっていた。どちらが先だったのかは今では思い出せない。

 

 

 

 

3. 恋をする

 大学浪人のはじまりの日、予備校のカフェテリアで、その当時一生一緒にいようねと約束していた地元高校アメフト部の彼氏に『東京の大学に行ったらそのとき付き合ってる彼女とは別れるって決めてるから別れる』というよくわからない通告を受け、振られた。まさに頭上に雷が落ちたような痛みを感じたことを強く覚えている。アメフト部と築いたのは所詮ばかげた関係だったし、ばかげた約束だった。でもすくなくとも私は本気でずっと一緒にいたかった。めちゃめちゃ好きだった。その後一年のあいだ私はおおいに泣き、苦しんだ。勉強がつらいのか失恋がつらいのかの判別もつかず、駅のホームでぼんやりしていると自動的に涙が流れ落ちるような、情緒がイカレ果てた浪人生活の末、志望校に合格した瞬間その男のことは心底どうでもよくなったが、そこからの恋愛模様は荒れ放題の焼け野原になった。相手に深く依存し、束縛するくせに、自分はふらふらとどこかで遊んでいた。すべて自信がないせいだった。自分の魅力では相手をつなぎとめておくことは不可能だと信じこんでいたから、交際相手のSNSを覗いては、その人が他者と交流しているたびに深く傷ついた。そのうち自分の性別を否定したくなった。求めたり求められたりしたが、いよいよ見境なく誰とでも付き合うようになった。彼ら全員のことが大好きだったし、この世には多種多様な人々がいて、彼らに一瞬肯定された気になるのは楽しかったが、ひとりになればこれではいけないと思うほかなかった。ただやみくもに、自分自身を否定すれば、周りのうまくいかない諸々のことにすべて説明がつくと信じていた。この生活は精神の疲弊をともなった。そのうち私は『普通の人』という概念に恋い焦がれるようになった。

普通の人。生活に必要な色んなことをさらりとこなし、普通に暮らして、『死にたい』なんて思ったこともない人。会社員。充実した学生。安定した人。そういう人に恋をするようになった。

でもいわゆる『普通の人』は私のようなタイプの人間を見て見ぬ振りをする優しさを持つという特性があった。だからそこからの私は100100敗になった。失恋し続けて今度こそ完全に自分への自信を失った結果、拒食と過食を繰り返すようになった。心の不健康がいよいよ身体に影を落としはじめた。

 

 

 

 

4. サークル活動

軽音サークルに所属した。ギターをすこしだけ、ほとんどボーカルをやった。私は5年くらい掛けて、自分に音感とリズム感がないことを悟った。新歓コンパの時に気付けよと思う。でもなんとなく楽しそうで、楽しそうにしてる人たちがいるところに私もいたくて、所属した。人間がいるところで人間関係の機微を学んだ。ロック音楽は刹那的で楽しかった。ライブで盛り上がるのも楽しかった。でもなんとなくここが居場所なのではないなという気持ちでずっといたし、周囲もそれをなんとなく察していたと思う。無理やり違う種のところに押しかけて巣を作ったアリの一匹のようで、とても心細かった。

 

ひとつしたの後輩に、ものすごいギターを弾く男の子がいた。音の粒は正しく等しく完成されていて、だれのものより透明だった。彼のギターから出る音は美しいビーズのネックレスのようだった。欠けがなく、均等で、輝いていた。彼の私生活は完璧で、ほどよく謎があり、ルックスは王子様だった。『普通の人』の完成形を彼に見た私は、彼のギターと彼を崇拝することに決めた。恋愛感情は湧かなかった。

彼とは何度かバンドを組んだ。私はその度にベストを尽くした。歌は相変わらず下手だったが、スピッツのコピーバンドをやったとき、隣でギターを弾く彼と一瞬目が合った。いつもはいかにも現代っ子な顔をしてあんまり笑わない彼が、楽しそうだった。ライブハウスの照明がチカッと光って瞳の閃光に色をつけた。私は感動した。発表会のあと私と彼はハグをした。『普通の人の究極の形』と私は音楽で通じ合えたと思った。その日から私はサークルに顔を出さなくなった。王子様に会う必要も感じなくなったし、あれだけ一生懸命作ったアリ塚にも執着がなくなってしまった。

 

 

5. 飲み会をする

自分がアルコールに弱いことはショッキングだった。酔うのも早いし、ひと口めから頭が痛くなって気持ち悪くなる。酔った自分が自分でコントロールできないことにも嫌悪感があった。呼吸をしているだけでも自分は誰かに迷惑をかけていると考えていたので、誰かに介抱されることを想像しただけでも鳥肌がたった。

親にできるかぎり金銭的な負担をかけたくないという理由で、時給の高い、お酒を飲んで会話をする仕事をしたことがある。聞いていた以上に大変な仕事だったし、そこでもお酒は飲めなくて毎日吐いていた。酔っ払って体を触ってくる客が嫌だった。お店を出ては、街中で見かける酔っ払いを軒並み軽蔑した。

今ではなんとかアルコールとの付き合い方も覚えて、ほんのちょっと舌先で味わうだけなら、顔が赤くなるくらいで済むこともわかって余裕ができたので、酔った人にも比較的寛容になった。お酒を強要してくる人とはそもそも食卓を囲む機会を断つことにしたので、それからは楽になった。

でも、酔って楽しそうにしている人たちに混ざれない寂しさは、何度味わっても慣れない。なぜ私は飲み会で、人はやっぱりひとりなんだなとか考えてるんだろう?と思うことが何度もある。この寂しさはその場では誰にも言えない。しらふの誰かに告げたこともない。それにまつわる記憶のほとんどがあんまりにも寂しくて、大学時代の飲み会の話題は今でも避けるようにしている。

 

 

 

 

6. バイトをする

上記の通りの理由である。『同じ場所に行き、同じ人と挨拶を交わし、作業をする』ことが、できない。それに気付くまでアルバイトを変えて面接を受けて1ヶ月くらいで辞めるのを繰り返した。私は自分のこの習性を逃げ癖、甘えだと判断した。

何度も何度も同じことをやらかすたび、段々自分が今まで迷惑をかけてきた人間の数を数えるようになった。生きるためにはお金が必要で、そのためには仕事をしなければならない。しかし仕事はなぜだか続かない。ミスも多い。そのたびにたくさんの人に迷惑をかけている。その数がこれからもどんどん増えていく。私が生きるために働こうとすることで迷惑を被る人の数が。耐えられなかった。

アルバイト自体に喜びはあったし、バイト先の人たちも好きな人ばかりだった。あまたの職場を見たが、嫌いな人なんてほとんどいなかった。それなのに、どうして。どうして玄関から足が動かないのか。脚をさすっても、叩いたりしても、動けなかった。化粧もして、髪も整えて、あとは出掛けるだけなのに。そうしているうちにシフトの時間が来て、金曜の夜に店をまわす居酒屋の店長から怒号の電話が来た。ただひたすら謝って、なぜそこに向かえないのかの理由は情けなくて言えなかった。もういい。と電話が切られた。私も不出来な自分を、自分自身から切ってしまいたかった。もういい。

 

 

 

 

7. 同期と同じような大手企業に勤める

ここまで読んでくださったような諸賢にはもうおわかりであろうが、私には就活が不可能だった。がんばるとかがんばれないとかではなく、不可能だった。初めて行った合同説明会の会場のトイレで吐いた。その頃には大学を卒業する気力も残っていなかった。あんなに血へどを吐いてまで勉強して合格した大学だったから、愛着があった。大好きだった。学士になりたかった。でも、もう、起き上がることすらできなかった。退学届にサインをして捺印し、封をして学務科に提出するだけの社会活動にさえ、全身から血がふきだすような苦痛を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ざっと夢の破れたすがたを書き出してみたが、なかなかどうして感慨深い。こうも自分の激しい思い込みと理想の高さと自己否定と自意識過剰のせいで傷だらけの日々になることがあるのかと、今となっては笑ってしまう。自分をサンドバッグにしてロックミュージックを聴きながら延々とボクササイズをしていたようなものだ。なんとも悲しい20代前半だった。

 

 

毎日が刹那的で享楽主義的であった反動か、退学届が受理されてからしばらくの期間をアパートに引きこもって過ごした。手帳に何かしらの予定がないと怖くて眠れなくなっていた日々が嘘のようで、静かに、閉じながら、深い海に沈むように死を想いながら苦しんだ。笑ってしまうことだけど、そのころの私にとっては誕生日に死ぬことだけが生きる目標だった。

 

 

たまに、私の状態を理解してくれている友人が家に遊びにきてくれることがあった。ケーブルの切られた潜水服で深海に潜り続ける私にとって、それが世界とのよすがだった。本当に幸いなことにみんな私の苦しみを認めながら無視してくれたし、うちにある漫画を読んだり本を読んだり映画を見たりしておもいおもいに寛いでくれた。私の料理に価値を見出すことは自分ではできなくなっていたが、お皿にもって出せば美味しいと言って食べてくれた。私はたくさんありがとうと言ったような気がするが、分厚い潜水服を着たままの状態の私の言葉が、水中に潜ってきてくれた友人たちに、はたして言葉として伝わっていたのか、それはかなり怪しいことだ。

 

 

どうせすぐ死ぬのだからと思考は破滅的になっていたから、両親にかける迷惑は度を越しはじめていた。たびたび口論になったが、自殺してやるという脅迫を交渉の道具にすることだけはできなかった。ただただ自分が生きていることが申し訳なかったから謝り倒した。そのうち母に癌が見つかって、一家の問題が私どころではなくなると、私は独りでのびのびと死にたくなることができた。ほとんど東北にある大病院に、片道3時間かけて何度も見舞いに行っては、母の状態に打撃を受けた。衰弱しながら必死に生きようとしている母を見るのがつらかった。そしてここの職員はひとの生命を守るために日々働いているのだと思うと、自分の希死念慮があまりにも恥ずかしく不道徳であると感じ、そのたびに視界が歪み貧血を起こして倒れた。病院内で倒れるのですぐに脈を取ってもらえて、大事ないですのですこし寝かせましょうと言ってもらえるのはよかった。

 

母が奇跡的に生還して、それまでと打って変わったような人間になったので私は驚いた。彼女は私のしんどさに同情を示してくれるようになった。同情はそのうち理解に変わった。家族が私の自殺願望に理解を示すのは意外だった。軽く混乱したが、ありがたいことだと受け入れて、神田川のアパートを離れた。

 

 

それからまあ色々あって今は漫画を描いている。漫画を描いている間が一番死にたさを忘れることができるためだ。あのころに比べ本当に私は健康になった。お医者様にも恵まれた。それが服薬によるコントロールであるとしても何でもいい。明るく楽しく日々を過ごせるに越したことはない。

 

 

ただ、どうしても、何をしても、私の隣には死がある。意識に死がこびりついている。おひるごはんを選ぶとき、A定食、B定食、死。みたいなノリで常に自殺が選択肢に存在する。友人や家族といると忘れられるが、ひとりで昼食をとるときは大体最後の選択肢を否定してからABのどちらかを選ぶプロセスを経る。そしてそれを無限に繰り返してキャッシュ(疲労)が溜まると、動作が遅くなり、死の誘惑に付け込まれ始める。

ここまで書けば、メンタルヘルスというものに馴染みのない人にも、鬱病が脳のエラーの病気であることに、かなり納得してもらえるのではないだろうか。

 

しんどい話ではあるが、それが私の病気なので、自分で何とかするほかない。ずっと友人や家族にそばにいてもらうなんてことはできないのだから、自分で戦って勝ち取る生を生きるしかない。そしてその勝負に負けるとき、そのときが私の終わりになる。でもいまのところ負けるつもりはない。100年生きて漫画を描きたいし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が死ぬ時の服装について考えたことのある人はいるだろうか?

 

アパートの部屋で私は何度も考えた。その時期はとくにルッキズムにとらわれていたから、短い脚を隠したくてハイヒールしか履かなかった。ハイヒールの世界は奥深く美しかった。続かないバイト代でディーゼルからジミーチュウ、フェラガモなどのハイヒールを買った。外出はとうにできなくなっていても、一足を手に持って目を閉じれば世界中に出かける夢を見ることができた。東京の夜遊び、イタリアのような愛しい国、優しい家族のいる場所、友達と歩いたアスファルト、夢と現実の記憶の区別がつかなくなるまで、私は目をつぶって想像の中を歩いた。

夢想がこうじて、夜中とつぜんハイヒールで出歩くこともあった。高い衝動性にかられたのだ。夜の東京は昼に比べ情報の量が減るので歩きやすかった。高い値段のするハイヒールは歩きやすくてどこまでもいけるように思えた。一晩中歩きつかれて夜明けとともに帰宅すると、その日はぐっすり眠ることができた。

 

 

投身自殺をする人間は、なぜか決まって靴を揃える。私にはその理由が痛いほどわかる。

あれは生との別れの儀式、簡易な自分の葬式である。ルールに則った手順を踏むことで、死への過程に生じる苦痛への恐怖を和らげるものなのだ。靴を揃えた瞬間から、もう投身は始まっている。涙は収まっている。あとは重力に身を任せれば、コンクリートが、地面が、地球が自分を優しく抱きしめてくれる。自殺を選ぶような人間にとってそれは愛を求め、期待通りに授かる行為に他ならない。何もかもうまくいかなかった不透明な人生の締めくくりに、死だけが確実な存在としてあってくれる安心感。どこでも言われていることだが、死は救済なのだ。

 

 

そのとき一番のお気に入りのハイヒールで臨みたい。私はいつしかそう考えるようになっていた。靴を揃える瞬間、それは恍惚だろう。

その誘惑と戦い続ける人生、そんなんになってしまった。本当に無駄ばかり、自意識過剰で自己否定に満ちた、面倒のかたまりのような人生。気持ちの悪い、どうしようもない人生。それを生きている人間が、これを書いた人間。

 

 

(しょうもない人生かもしれない。でも私の描く漫画は絶対にしょうもなくない。それは断言できる。)

 

 

ただこんな文章は確実にしょうもない。推敲もしてないし、てにをはに自信もない。

こんなしょうもない文章をこんなところまで読んだあなたはきっと優しい。優しくて、暇な人だ。

何がハイヒールかクソが、と思ってくれていい。馬鹿にしてくれていい。見下してくれて構わない。最初に書いたけど、あなたの何かを変えるつもりは一切ない。配慮を求めない。この記事を読んで、面倒で馬鹿な最悪の女だと思って私から離れていってしまうならそれも仕方がない。

 

よくまとまらないけど、でも、ここまで読んでくれてありがとう。ごめんね、でも本当にありがとう。

 

違う、こんなことを言いたくて、こんな馬鹿みたいな文章を書いたわけではないのだ、みんなありがとうみたいなことを思ってる人間が希死念慮にとらわれること自体おかしい話だ。本気で感謝してるなら生きればいい。今まで生かしてくれた人たちに失礼のないよう、生命をまっとうすればいいだけの話。ええと、それができないのが鬱病という病気で、えーでもそれって甘えとどう違うんだ?

 

もう最悪。もう全然だめ。

こんな文章までまとまらなくなってしまった。死にたくなってきた。薬飲んで寝る。全員早く寝てください。おやすみ。